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近衛信尋 書状 伊達宗時宛
近衛信尋書状
伊達宗時宛
四月四日付
本紙33×40,5糎
軸装 箱入
傷み有
宛名の「伊佐」は宇和島藩主伊達宗時(1615~1653)。船中で発病し大坂で保養している旨、下向の後で聞いて驚きました。心配です。薫物を少し送ります、と述べる。
*無断転載・翻刻を禁ず
【近衛信尋】1599-1649 江戸時代前期の公卿。
慶長4年5月2日生まれ。後陽成天皇の第4皇子。近衛信尹の養子。左大臣をへて,元和9年(1623)関白,氏長者となる。茶の湯を古田織部にまなび,沢庵宗彭らと交流。宮中の学芸文化面で活躍した。慶安2年10月11日死去。51歳。号は本源自性院。法名は応山。日記に「本源自性院記」。
【伊達宗時】江戸時代前期の伊予国宇和島藩の世嗣。官位は従五位下・左京亮。伊達政宗の孫にあたる。
初代藩主・伊達秀宗の次男。母は井伊直政の娘。
元和8年(1622年) 同母兄の宗実と共に2代将軍・徳川秀忠に御目見した。寛永4年(1627年) 宗実が病弱を理由に嫡を辞したため、寛永9年(1632年)に世子となり従五位下左京亮に叙任された。
寛永15年(1638年)、祖父・政宗が幕府に宇和島藩の改易願いを出すという和霊騒動の衝撃のため中風になり、病床に臥すことが多くなっていた父・秀宗に代わり宇和島に入り、実質的な藩主として政務をとった。このとき秀宗は既に死んだもの、隠居したものとして扱われており、幕府も家臣も宗時のお国入りを「当主となり帰国」と認識しており、『大武鑑』など一部史料では藩主の列に数えられている。
寛永20年(1643年)には仙台藩に乞うて家臣を貰い受けるなどしており、実際に当主として活動していた。藩政では家臣の知行を蔵米制に移行し、定免法への税制改正などを行なっている。慶安3年(1650年)から宗時は健康を害するようになり、また同年には土佐藩との国境争いも起きている。
承応2年(1653年)5月29日、宗時は39歳で父に先立ったため、実際の2代当主は異母弟・宗利が襲封した。
なお、宗時の早世は和霊騒動による山家公頼の祟りと噂された。
価格:220,000円(税込)
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